室町時代の豪族・神余景貞の三回忌に、里人が岩崎台に建てた念仏堂にはじまるという松野尾寺。
文安5年(1448)に福寿山満福寺と改め、のち福聚山松野尾寺と改称。本尊は文殊菩薩で、境内に観音堂があったとのことです。
大正12年の関東大震災で倒壊したため、地区内で倒壊した来迎寺、安楽院とともに、巴川を挟んで対岸の山の中にあった自性院に合併されたという経緯を持っています。
自性院は、元は地蔵畑と呼ばれる山中にあった寺。室町時代中頃に地蔵畑の岩屋で家臣・山下定兼の反逆に遭った神余景貞が自殺したとされ、これを供養した自性房がこの岩屋に自性院を創建しました。元禄大地震で崩れたのち、現在地に移ったとのこと。
平安時代中頃の阿弥陀如来坐像は、市の指定文化財。また鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔も、全国で数例しかない市指定文化財となっています。
近くを流れる巴川には塩井戸橋がかかり、橋のたもとには「弘法の塩井戸」があります。ここにはこんな言い伝えが。大同3年(808)11月、旅の僧を心優しい女性は小豆粥でもてなしました。その粥は塩気がなく、旅の僧は不思議に思い女性にたずねると、貧しくて買えないとのこと。それを聞いた僧は錫杖の先で巴川の川中を挿し、引き抜くとそこから塩辛い水が湧き出たとか。その旅の僧こそ、弘法大師だったという伝説です。
その塩井戸からは現在も黄色味を帯びた塩水が湧き出ており、11月になるとこの塩水で小豆粥を煮て、大師にお供えするという慣習もありました。神余という地名通り、神仏との関わりが深い地なのです。