貞和元年(1345)、夢窓国師が開山した臨済宗の禅寺である興禅寺。境内には里見義弘の夫人・智光院殿の供養塔があります。法名・智光院殿である青岳尼(しょうがくに)は、波乱の人生を送った女性。青岳尼は国府台合戦(市川市)で討ち死にした小弓公方足利義明の娘で、里見義堯を頼って房州に落ち延びた遺児のなかに彼女もいたという説があります。その後鎌倉で尼となり、鎌倉尼五山筆頭の太平寺の住職となりました。
弘治2年(1556)、里見義弘は宿敵北条氏に対し三浦半島の城ヶ島を攻略し、なおも鎌倉まで進攻。そのとき太平寺で、若く美しい青岳尼に出会い、彼女を連れ去ったのです。かくして青岳尼は還俗して義弘の正室になりました。
実は義弘と青岳尼は幼なじみだったのではないかともいわれています。戦国武将の武勇伝のかげに、波乱の生涯を送ったひとりの美しい女性の物語がありました。
参道を通って山門手前の六地蔵は、昭和初期に建てられたもので、千倉の彫刻師・後藤義孝の銘があります。
山門は明治34年(1901)に建立され、重厚な構えの四脚門。山門を抜けると境内の左手前に観音堂が。行基菩薩の作と伝わる十一面観世音菩薩を本尊とする観音堂はかつて東山の山麓にありましたが、いつの頃からか当寺の境内に移建されました。
本堂内正面には、夢窓国師が請来したという後小松天皇の勅額「普済(あまねくすくう)」が掲げられています。
落ち着いた雰囲気のなかにも、熱い戦国の世の里見ロマンを感じさせる佇まいの禅刹です。