奇雲山金銅寺。この名前にふさわしい、寺に伝わる3つの不思議な物語があります。
ひとつめはご本尊にまつわる話。和銅2年(709)に現在地より北方にある小萩坂西之野に、行基菩薩が観音菩薩像を自ら刻んで七間四面の精藍を創建した当寺。その後、長い年月の間に荒廃し草原となって埋もれてしまったといいます。
そして弘安3年(1280)。小萩坂から一筋の光明が輝き、それが白雲となって立ち昇ったのを近くに住む僧・玄助が見つけました。
立ち昇った白雲と光に導かれ、玄助が草むらをかき分けたところ、旧堂跡の草の中から金銅の聖観音像一体が現れたのでした。
そこで玄助は、萩を束ねて柱を作り、茅で屋根を葺いて、観音像を安置したとされています。
ご詠歌にある「はぎのはしらは五六千本」とはこのことを詠ったもの。奇雲が立ち込めたところに金銅仏が現れたことから、奇雲山金銅寺と号されました。
2つ目は昭和13年本尊が盗難にあい、後に埼玉県で発見、当時の区長を中心に取り戻され、元の須弥壇厨子の中に安置されました。
文安5年(1448)に村人たちが力を合わせて奇雲がたなびいたあたりに堂宇を建立し崇拝して以来、地元の力に支えられ現在に至るという金銅寺。
3つめの言い伝えは、境内にある梵鐘にまつわる話です。
寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師・藤原忠直作の梵鐘は、肉厚な駒の爪など地方工人らしい素朴などっしりとしたもの。その音は「西海の波に透徹し、富山の月を吼破し、一村無明長夜の憂を覚す」という美しさだったそうです。この鐘は戦時中に供出されるも、その後山梨県市川大門町の長生寺にあることが判明。昭和58年に約40年ぶりに里帰りを果たしたとのこと。
一度失われたものが現れるという、不思議なご利益のある寺です。