一般に「震災観音堂」と呼ばれ「慈恩院」塔頭として多くの人々の帰依を集めています。
御開山は、(佐々木珍龍)耕雲珍龍大和尚禅師。
珍龍老師により「善導会館」が建てられ、改名され「観音堂」と銘々されました。お堂は後に北条から館山駅前に移転。その後、現在の海岸近く中村公園一隅に移転されました。二世巨海潜龍大和尚、現在住職、三世知音寛道。
創建された趣旨は、大正12年9月1日に起き、未曾有の大被害を出した「関東大震災」による犠牲者の御霊を慰め、且つ「世界平和」の為、そして世の人々の「精神教化の一大道場」たらしめんが為、という発願のもと今日に至ります。
当山『震災観音堂』の御開山「耕雲珍龍大和尚」により清国より、日本に伝えられました。
「耕雲珍龍大和尚」は、日清戦争のおり大勢の従軍僧侶を従えて大陸に渡り日本に於ける従軍僧の先駆者として多大な功績を残しました。
日清戦争後、清朝朝廷より、その功績に対し、中国の「観音霊場三十三個所」の内第一番、「浙江省舟山列島補陀洛山」に秘蔵され、洛陽の市価を高らしめていた「聖観世音菩薩立像」と「阿難尊者立像」二体の霊佛尊像を賜りました。
「耕雲珍龍」老師に深く帰依していた親松佛巌翁(おやまつぶつがんおう)は、老師の観音堂創設の趣旨に共鳴し、丈六大仏像の奉納を決意しました。
日蓮上人所縁、佐渡の御神木とされていた神代杉の大木を、猪股惣四郎氏より提供を受け、「金山」の山奥から村中の人々総出で切り出され、工房に運ばれ制作が始められました。
正にお祭りの様な、賑わいとお祝事で、その時の様子は現在にも多くの人々に語り継がれている程の大行事でありました。
佐渡・金井町の古刹“本光寺”奉安、国宝“聖観世音菩薩”を原型として『丈六大観世音菩薩』は完成され昭和3年、日蓮上人生誕地、安房の「観音堂」に奉安されました。