漁師の街・勝山漁港をのぞむ大黒山。その中腹にある六番札所・長谷寺の隣に、番外観音堂の水月堂があります。
水月堂が長谷寺に隣接された経緯は不明です。
海際という自然環境の厳しい土地であり、実際に幾度かの災害による消失を経験した長谷寺の歴史から考えると、不測の事態に備えるめに隣接地にこの番外観音堂が登録されたとも考えられます。
大智庵本堂裏の山裾にやすらぎ地蔵の祠があり、横の階段を上がると、こじんまりとした水月堂の境内と観音堂が。お堂は文和(ぶんな)4年(1355)の創建とされています。
元禄16年(1703)に起きた大津波では流失の憂き目に。当地でも多数の被害者が出ました。そこで供養に立ちあがったのは、勝山の捕鯨集団「醍醐組(だいごぐみ)」の3代目・醍醐新兵衛明定(あきさだ)でした。
勝山捕鯨の歴史は、里見水軍の血を引く世襲制の捕鯨集団「醍醐家」の歴史であり、後継ぎは代々新兵衛を名乗ったとのこと。
元禄の大津波では醍醐組でも、3代目新兵衛明定の兄・弁之助や親戚など、多くの犠牲者を出しました。
そこで信心深い明定は、元文5年(1740)に死没者の冥福を祈るため、そして助かった父や祖父、自分たちに対する仏の加護に感謝しるために、江戸の仏師に千手観音立像の造像を依頼したのです。
かくて初代新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て、この観音様を安置したとのこと。お堂の横には身代わり観音の石碑が建てられ、その歴史をしのぶことができます。